怒涛の11月 いま、思うこと
おはようございます♪
そのべけいこです。
今日のブログはいつもと違います。
自分のことを書きました。
長いけど、伝わりにくいけど、私に興味がある人には読んでほしい。
そうでない方は無理せず読み飛ばしてください(^o^)/
2016年11月はまるでジェットコースターに乗っているような月でした。
まだ終わってないけどね。
バレーの試合から始まり、赤ちゃん先生のメイン担当3件、打ち合わせ、幼稚園役員、そして金魚すくい。
加えて主人が結婚してからは初めての夜勤を経験。いつもとは違う生活リズムに合わせるのは、彼も家族もそれなりに大変でした。
そして想定外の胃腸風邪が家族で蔓延。私もダウン。
そしてそして大阪にきて4年半。本気のピンチで家族以外の人に頭を下げて助けてもらったこと。(この体験がすごくありがたくて大きかった!)
これも初体験。
まさに園部家史上 「初体験」の怒涛のひと月でした。
楽しい、悔しい、嬉しい、満たされない、ありがとう、ごめんなさい、助けて、疲れた、尊敬…他、いろんな気持ちがうずまいた。人に頼りにされたり、人に迷惑をかけたり、心配をかけたりした。
少し落ちついた今はずっと悩んでいたもやもやが根本的にふっとんだ事もあって、熱さを持ちつつも妙に冷静な感じ。伝わってるかな(>_<)??
同じ景色を見てるのに、見える事がいつもとは変わる。きっとそれは、私も家族も確実に、ひと回り大きくなったから。
こんな時、または出口が見えなくて悩んで苦しいとき、いつも思い出す言葉がある。
それは大学の大好きだった先生の詩。
少し長いけどそのまま引用します。
****************
若者よ
若者よ、悲しみのなかにある若者よ、
いま、こんな田村隆一の詩の一節を思い出した。
目が肉眼になるまでには
五十年はかかる
青年のときはイデオロギーや
観念でしかものを見ていない
海の微風 木枯らしの音
世界の影の部分が
見えてくるまでには
(田村隆一 『新世界より』)
若者よ、人が人になるのには時間がかかる。ましてや、人として「自分」史を歩く 青い覚悟しか持てなかった者にとっては、自分の目で事実が事実として見えてくるまでは時間がかかる。
生きることだ。
世界がそのように見える、肉眼になるまでは、しぶとく、しぶとく生きることだ。
人生をあきらめ、世の中をあきらめるほどには、まだ、若者よ、おまえは「自分」史を生きてはいない。
悲しみが本当の愛に変わるまで生きることだ。
*****************
まだこの詩の内容をすべて理解できたわけじゃない。解釈できてないところもある。それでも大事なタイミングで必ず思い出すこの文章。
いつも私を静かに奮い立たせてくれる。どんな風でも、しぶとく生きることだと。
「世界がそのように見える、肉眼になるまでは、しぶとく、しぶとく生きることだ。」
目が肉眼になるまでには五十年。
それまでをただ何となく生きぬいても肉眼にはなるのだろう。
けれど五十年、必死に自分の生きる道を探し、見つかったり、また見失ったりしながら、たとえ不器用でもがむしゃらに生きぬいたのなら、肉眼になったときに見える景色はきっと違う。
私はそう思っている。
この世に生んでもらってから31年。
肉眼になるまでざっと20年。
今はスッキリしてて なんでも叶いそうな気分だけど、そんなはずはない。笑
いい時も悪い時も必ずやってくる。
どちらのときも私のことだから、きっとすごく騒がしい。(周りの人たちすみません(*_*)) 天国のようだったり、奈落の底のようだったり。
けれどどんな事があっても、心の底に生き抜く覚悟ができている。
こんな風に言えるのは、私が死ぬほどの不幸を味わった事がないからかもしれない。それはその通り。ごもっとも。だけど、そんな不幸が来た時はその時にまたよーく考えます。
と、実はこの詩を知った10年くらい前から、思い続けて生きています。
伝わったかなー(*´ー`*)
少しでも、ひとりでも、誰かに何か伝わればほんっとに嬉しい!!!
長い長い文章をここまで読んでくれて、本当にありがとうございました。
明日のブログは軽めにしよ〜〜♪♪
0コメント